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『駅馬車』の「視線」について

BSプレミアムで放送された『駅馬車』(1939年)をおよそ二年ぶりに見た。

監督はジョン・フォード、主演はジョン・ウェイン。彼らはこの作品を機に一躍西部劇の、ハリウッド映画を支える大監督・大スターへとなっていく。

 

初見時は優れたキャラクター描写と何よりも終盤の、駅馬車アパッチ族のスピード感溢れるアクションシーンに、これが80年前の映画なのかと驚き、同時に現在まで脈絡と続く娯楽映画のルーツを見た興奮でいっぱいだった。

そして今回再見してみると、あることに気がついた。それはこのドラマで何よりも雄弁なのはキャラクターの「視線」であることだ。

 

これからの文章は『駅馬車』のストーリーに沿ってその「視線」を紹介していくものだ。もう少し僕に文才があれば綺麗に短くまとまったのかもしれないが、これが限界なので容赦していただきたい。ほぼ全編を記してるので、未見の方は注意。

 

物語の冒頭は幾つかの視線が交差していく。

娼婦ダラスと飲んだくれの医者ブーンを追い出す人々の視線、ルーシー夫人に見とれるギャンブラー・ハットフィールドの熱い視線。そして酒商人ピーコックの持つウイスキーを狙うブーンの視線。

必要最低限のセリフと、上記した視線を示すようなショットで彼らのキャラクター性とそれぞれの目的が観客に提示される。特にダラスに対する夫人同盟の蔑みの視線、男たちのいやらしい視線や、ルーシーの別の生き物を見るような目は、見るものにダラスに対する同情心を誘う。

 

銀行の頭首と保安官を乗せてローズバーグを目的地に駅馬車が街を出る。しばらくすると、銃声と共に、家族を殺された復讐を望むガンマン、リンゴーが登場する。カメラは彼の顔にクローズアップする。この映画で初めて「視線」が画面一杯になる瞬間だ。その汗が垂れる顔からは虚栄と不安のようなものが見て取れる。それもそうだろう。リンゴーは脱獄者であるものの、元は一人の牧童であり、駅馬車に対して脅すように銃を撃つようなことはしないからだ。

 

保安官がリンゴーを彼を刑務所まで護送するために駅馬車の中に入れる。これで役者が揃った。この車内でも大きな声で一人喋り捲る頭首にから視線をそらして拒絶する二人の女性(特にルーシー)や、大事な試供品のウイスキーを持っているブーンに対するピーコックの心配そうな視線、ブーンの葉巻に対して声を上げずに拒絶するルーシー夫人と、それに気がつくハットフィールドの視線などが錯綜する。

 車内での会話及び視線の中で誰に対しても冷静で偏見を持っていないのがリンゴーだ。彼は長い間投獄されていたから、ブーン以外の人とは初見であり、彼は椅子ではなく床に座っているので錯綜する視線から外れているのである。そのゆえの落ち着きぶりだ。

 

さて駅馬車一つ目の街に到着するが、ここで彼らはアパッチ族が近くに来ていることを知る。そこで「このまま進むかどうか」の多数決が御者の友人宅のダイニングで行われるのだが、保安官はルーシーの賛成意見を聞いた後にピーコックに意見を聞こうとする。するとリンゴーが口を挟む。

リンゴー「先に聞くべき夫人がもう一人いるぞ」

 

ダラスはダイニングから少し離れた椅子に座り、集団から身を避けていた。ここでも彼女に対する視線が取り扱われる。ダラスに視線を向けているのはリンゴーしかいないという事実だ。これで観客はリンゴーとダラスに強い結びつきを覚える。

投票の結果、一行はこのまま目的地に進むことになり、ダイニングで食事をとる。ここでもまた視線が錯綜する。食卓から離れようとするダラスにリンゴーが「こちらへ」と貴婦人を扱うように席を譲る。その瞬間、場の雰囲気が凍る。特にルーシー、ハットフィールド、頭首は信じられないような目線をその様子に向ける。ルーシーは同じ卓にダラスが座ると彼女をじっと見つめる。ダラスは彼女の視線に耐えきれず、目をそらしてしまう。そして先ほどダラスに非難の視線をぶつけた三名は彼女から離れるように席を移動する。対照的に食事中彼女を見つめ続けるのがリンゴーだ。

ダラス「何を見てるの?」

リンゴー「思い出そうとしてる どこかで会いましたか?」

ダラス「いいえ 一度も」

ここのやりとりはリンゴーが彼女を口説いてるようにも取れるが、同時にリンゴーが投獄される前に娼館で働く彼女を見たかもしれないことを示唆している。自らを貴婦人のように扱ってくれるリンゴーに嫌われたくないダラスはリンゴーが有名人だと話をそらす。

 

駅馬車は再度出発する。ここでもまた頭首の口やかましい話から顔をそらすダラスとルーシーや、無言で行われる ブーンによるウイスキーの盗み飲みとそれを見るピーコックの無言の視線劇が行われるが、新たに追加される視線は、体の調子が悪そうなルーシーに気がつくダラスの視線だ。葉巻のように気がつくきっかけもなくルーシーの具合が悪いことを見抜くダラスの目線は同じ女性として誰よりもルーシーの変化に敏感な視線を持つ証拠なのだが、ルーシーはダラスの優しさを拒否してしまう。

そしてここでもまた、リンゴーがダラスを婦人としてあつかうくだりが出てくる。リンゴーに優しくしてもらったダラスは彼に対して感謝の視線を向けるが次第にその表情は曇っていく。リンゴーの彼女に対する視線は変わらないが、ダラスは自らの素性が明らかになってリンゴーに嫌われるのを恐れているのだ。

 

二つ目の街に着く一向。ここで追加される視点はメキシコ人クリスの妻であり、アパッチであるヤキマに対する疑惑の視線と、ルーシーが産んだ子供に対する慈愛の視線だ。

尚、ここで飲んだくれのドクター・ブーンは酒気をむりやり抜き取り、ルーシーの助産を務める。ここでちょうど映画の上映時間半分に当たる。この物語のもう一人の主人公はブーンと言っても過言ではない。

出産した後のルーシーからダラスに対する視線は変容している。一晩つきっきりで看病し、自分の髪を結ってくれているダラスを見つめるその視線は無表情ながら、照明効果によって光に満ちている。

 

リンゴーはダラスに求婚し、ダラスは保安官の目を盗んでリンゴーを逃がそうとするが、リンゴーは動きを止める。その視線の先にはアパッチが戦いの前に上げる狼煙があったからだ。リンゴー、保安官、ダラスの視線は恐怖と緊張に染まっている。

慌てて出発する一向。次の街はすでにアパッチによって蹂躙され、川の渡場は破壊された後だった。ここで彼らは急揃えの仕掛けを馬車に取り付け、川を渡るのだが、カメラは馬車の上に固定される。ガタガタと揺れながら川を渡る様子を観客に登場人物達と同じ目線を与える。まだヌーベルバーグ前の時代の映画でこのような演出は珍しいのではないだろうか。

 

そして川を渡った後に極め付けの視点が現れる。アパッチ族の獲物を狙う視線だ。何よりもその頭首ジェロニモらしき(彼らにはセリフがないのでカメラワークで想定するしかない)老人の達観したような表情は彼らが一筋縄では行かないことを我々に伝えてくる。

ここからかのアクションシーンなのだがここではあまり視線は問題にならないので割愛する(万事休すとなった時に、ハットフィールドがルーシーが陵辱されない為に残り一発の銃弾で殺そうとした時の視線もあるが、視線よりも手に演出は集中している)。

 

ついにローズバーグにたどり着いた一向。街の人々は娼婦のダラスがルーシーの子を抱えているのにあからさまではないが、冷ややかな目で迎える。しかしルーシーのダラスに対する視線はもう変わっていた。

一方、リンゴーは家族の仇、プラマー兄弟を倒す為の決闘に赴く。そんな彼を心配そうに見つめる保安官、御者、ブーンの三人。

そのプラマー兄弟たちがいる酒場にはリンゴーが来ていることは伝わっていた。無言の客達。彼らの視線はプラマー兄弟に対し、不安そうに注がれている。そこに現れるブーン。 ショットガンを持って決闘に向かおうとする長男ルークに対し、ブーンは強い視線でもって対峙する。

ブーン「散弾銃は預かる」

ルーク「どかないと腹に穴が開くぞ」

ブーン「それを置いていかんと殺人罪で訴える」

 

ここでのブーン演じるトーマス・ミッチェルの視線の力強さと、クローズアップは素晴らしい。ルークはショットガンを置いていく(外に出てから彼の情婦が結局渡してしまうのだが)。視線が錯綜したこのドラマにおいてもっとも力強い視線が、飲んだくれでトロンとした目で登場したブーンから発せられるのが白眉の演出だ。前述したようにこの映画のもう一人の主人公はブーンなのだ。

 

決闘に赴いたリンゴーを待つダラス。銃声が聞こえ不安になっている。ここでのカメラワークは少し変わったものだ。

柵にもたれ掛かってるダラスにカメラがドリーで近づく。ルークが酒場で死ぬカットの後なので、見ているものはこれがリンゴーの視線、POVだと思う。ダラスが顔を上げると、微妙にカメラ目線とは異なる方向を向く。すると音楽の高鳴りと共にリンゴーが画面右から登場し、ダラスを抱きしめる。ダラスと観客とリンゴーの視線がこのワンショットで錯綜する。フォードは最後の最後に奇妙な演出を入れてきたが、この瞬間こそが視線のドラマであるこの作品を象徴するのだろう。

 

うげーっ!

ここまででスペース込みで3746文字書いてしまった。ダラダラ書いてしまうのはやはり文章をまとめ上げる力が備わってないからだろう(なんかこう、第弐位相みたいな的確な批評文が書けるようになりたいもんだけど逐一説明してしまうのがよくないんろうか)。

多分ジョン・フォード作品に限らず演出のうまい作品はみんな視線を重要視しているだろう。しかし、この『駅馬車』ほど視線に力が入った作品はそうないのではと思い、この記事を書いた。この駄文が少しでも面白く読めたり、『駅馬車』に対する視線が変わってくれたら幸い。

 

ってこれじゃあ論文だな。